Variation(No.1-No.2)

Technique

digital black and white photo


Dimensions (mm)

1305 x 870


Year of creation

2018





Concept

「世界が存在するためには一から二に移行しなければならない。そして“ニ”は多数へと繋がる道である。二とは言わば多数への第一歩であり、オープニングであり、誕生なのである。」ジャン=クリストフ・バイイ

 前展では、春画と資本主義について語らせて頂きましたが、それは世俗に関する事柄でした。春画を通してアンディ・ウォーホルのキャンベルスープ缶を資本主義下の象徴と捉え、資本主義による我々人間社会の普遍的とも思えるような被写体としてどう向き合うべきかというテーマを取り組みました。それは、歴史的にこれまで商品とされてきた女性性を現代的資本による産物の中に入れてしまうこと、言い換えるとそれはヴァギナを缶詰の中に封印することでした。資本志向によって大量に生産される缶詰の中に“誰か”のヴァギナという唯一性の消失があることを言いました。しかし、それだけでは性に関しては不十分であり、性とはそもそも何なのか、と問う必要があるのではないか。私は今展に向かうにあたり、そのことを念頭にジェンダーの歴史と政治に関して調べました。ジェンダー、取り分けフェミニズムの問題は歴史的には19世紀末頃から訴えられますが、それらは確かに文明の進歩により、また社会の総体的な観点からして、徐々に女性が権利を勝ち取った経緯が見て取れます。フェミニズム運動の中でも女性の市民権運動や参政権など、今日の日本では当たり前とされることですが、戦前戦後の時代では常に女性は蚊帳の外に置き去りにされていたと言えます。この権利の獲得は人類にとっての進歩に更なる拍車をかけることになり、女性の社会進出によって、労働の拡散性は向上します。これは、性の序列や男性の優位化を批判すると同時に、性的差異を認めなければならない実情も露呈されます。これら運動性をもつ主張自体はもちろん権利であり、その主張がなければヒューマニズムとしての進歩はありません。しかし、相反する概念をどう共生的に主張すべきか、という問いが含まれていることが必要不可欠です。
 これは一つに長年の間、不可逆的とも思われる単一の性により統治が行われてきた反動と言えるかもしれません。もし、それが自然的法則に則ってのことであったとすれば足掻きようがない事態と考えられますが、しかしそうではないという主張が今日を占めます。それら主張は人間のみに許されたことであり、人間のみに課された事態であることを踏まえ、その主張と自然法則性の両立とがどう成されていく時代なのかを問いたいと思いました。
 そもそも「性」とはなんなのでしょうか。それは自然性として、また社会一般のマジョリティーにとって「男(雄)と女(雌)の形態」と普遍的二元性を元に考えられ、そもそもその性は広義的に捉えれば「終始」を意味していると言えます。その一つに性は「生」へと繋ぐ唯一の選択肢であり、またそれは「死」への序曲とも言えるからです。それはまた生殖であり、生殖は他者への侵犯であると言えます。ここでいう「性」とは本来「男と女」というそれぞれが持つ特性がそもそもの優越的な体現性の元で二元的に語られるものであると考えますが、今日の性の本質を今日的な社会という領域を通して語ると「性」は一元的に言えなくなっていると思われます。性とは自然法則的には二元的に相反するもの(異なる存在)ですが、人間社会では二元的な相反性は本来はないのかもしれません。故に、この春画展では性を通して今日的な社会背景を問う非常に大切な展覧会の一つと考えます。
また、男と女という二元的な本質に何が潜んでいるのか。この問いが人間社会にとって、また多様で個別的な各人にとって非常に重要であり、これ自体を避けることが許されない我々人間社会としての一つの進路になるのではないかと考えます。
 性に対する考察は非常に多岐にわたると言えますが、一般的に言える事は、男性はペニスを、女性は子宮を自然的に備えているということです。解剖学者の三木成夫氏が言うには「三千億年の昔、原子の海面に小さなタマが誕生した時、すでにその中には地球を構成する全ての元素が入っており…(中略)…それは地球というモチをちぎったようなもので、一つの星、 “生きた地球の衛星“であり、ただそれはあまりにも小さく、しかも海水の表面張力が強すぎて宇宙空間に飛び出すことができず、星のまま漂っている。そういうものが一緒に集まり出来た多細胞は、あの大宇宙に対する小宇宙ということになる。」と。そうして、それら細胞により構成された私たちは男と女という二種に分裂をして今日まで至ります。そして、この先に何が待ち受けているのか。この問いが非常に重要であります。進化の過程で理性を持つことになった私たち人間に課された命題とは何でしょうか。
 それは、性に関する今日的な社会問題は性的差異を (社会的に、政治的に、哲学的に、芸術的に…) どう捉えるかにあります。性的差異とは、上記したように男性はペニスを持ち、女性は子宮を備えるということに他なりません。それは自然の宿命と言えますが、その状態が政治的に強制利用され続けているとも言い換えられます。(自然による性的差異は逃れようがないことを前提として)この強制とは男性は子を宿せず、女性は子を宿すことができるという事実であり、「人類」とは男性・女性という二種の個別なアプリオリ的形態をもって初めて生まれ、社会の中で存在する、と言えるからです。また、いかなる文化においても男性的なるものと女性的なるものがあるが故に性的差異は自然法則からすれば同一視されることは決してない、と言えます。これは一つに、ジョルジュ・バタイユが言う「非連続性の連続性(からの非連続性)」と言えます。言い換えると、生殖とは死を認めるということです。有限的な存在であるが故に、その個別性は保証されなければなりません。どちらかが優勢であることなどないにも関わらず、しかしそうであれば、性の序列化がなぜ存在したのか…。
 シルヴィアンヌ・アガサンスキーは、“心理学者のフロイトは女性の野心は男性に対する憧れ、言い換えると「ペニスをもらいたい」という欲求の表現”と言っています。フロイトが唯一の性の記号としてペニスを選択している時点で女性を不完全な存在と見なし、去勢、ペニス願望を前提とした存在で語られています。しかし、そもそも形態が異なることは一目瞭然でありながら、なぜこれほどまでにその主張が堅持されてきたのか…。そして、ペニスによって性の所在が決定してしまうことに関して一方の類推でもう一方の性を考えることはできないと言える。しかし、この理論は時代を遡ればアリストテレスも提唱しており、二千年もの間、人間社会で最も有力視された考え方でした。それを一言で表すと、男性中心主義※1です。(※1.ファロセントリズム(男根主義)。ファロスとはギリシャ語でペニスを意味するが、実際の性器ではなく、崇拝の対象をいう。)
 アリストテレスが生きた時代とは、政治は男性が行うものであったと聞きます。それを維持する為には男性という人間を社会の上位に位置させながら、故にそのシンボルとしてファロスを真とする男性中心主義政治が行われました。しかし、アリストテレスは女性の立場を下げようとしたわけではありません。ファロスを政治利用したと言えるでしょう。その過程(政治)が今日まで続いているとさえ言えます。
 そして、自然はというと生殖に雌雄 “ふたつの起源”という原則を作り差異を強調してきましたが、実際に差異に意味を与えるのは社会や文明であったと言えます※2。(※2.アリストテレスの見聞と今日的なフェミニズム運動から紐解いても、あらゆる事象はアンビバレントなものであるという見解から、「戦争するのは男性であるが故に男性に主権がある」という主張などが生まれるのも必然的である。特に初期の段階では著しく相対的関係を結ぶには十分な経験が必要であると考える。) そもそも「雌雄」という言葉の語源も史記(項羽本紀)にある「決着をつける」という意味で使われており、やはりアジアでも昔から男の優勢論があったことも認められるでしょう。それ故に今展は私たちが人類の性的差異について、どのような意義を認め、どのような意味を与えているのかが問題ではないのかと思います。
 そのようなことから今展の作品は女性用下着を用いました。もちろん、下着の定義も必要になってきます。下着の定義とは保護であり隠蔽と言えます。また、女性は膣から精子を取り入れ、膣から子を産むことで、この隠蔽は神秘さへの変換とも理解できます。しかし、この神秘さには古代から人間の社会的システムが組み込まれてきたことは前述したとおりです。この社会的システムとは、性の序列化に他なりません。前述しているように、ペニスをファロスとして扱い、男性中心主義は近年に至るまで女性を常に欠如の対象として存在させてきたと言えます。そして、今日的には男性・女性という自然的に機能するような枠組みから外れた性的マイノリティも存在します。しかし、そこに当てはまるのは(当てはめるのは世論であり、政治であり…複雑な作用のもとで…)、本来の性的差異であった先天的機能性-性についての議論だけでは事足りないと言え、脱先天的機能性-性や同性愛など、本来自然が課した枠組みから外れた性的マイノリティを持つ人たちは常に混迷にさらされてきました。そんなことから今展では、性、とりわけ性的差異の問題を取り上げますが、そこには私たちの身の回りの社会や政治、また、種や子孫の誕生、生死と関係していることが特に今展に向かうにあたっての動機となっています。
 今展の作品では、下着という隠蔽性と、前述してきたファロセントリズム、性的マイノリティーやフェミニズムの問題をテーマに制作しました。ただの女装癖男性を描いたのではなく、去勢やペニス願望というファロセントリズムの観点と、優勢的と捉えられてきた男性にも性的マイノリティーがあること、そしてそれらには各々の独自的な個別性があることを考えなくてはなりません。
 今展の作品で表現したことは、性の隠蔽であり、ファロセントリズムによる性の排除(去勢、ペニス願望)です。このどちらの状況も男女の不在と確実的な存在を表しています。しかし、男女は不在していたとしても性は存在し、また、男女は存在していたとしてもこれらは中和化による性の同一化とも言え、また第三の性でもあり、連続性の終焉とも捉えられます。
そもそも女性自体は個別的存在として男性とは異なる形態を持ちますが、アガサンスキーが言うように、「ボーヴォワールの「第二の性」では “男性という優勢形態を目指し、女性は男性に打ち勝つためには中和化される存在であること” 」を疑い、そのことについて指摘しています。このような議論の元で、そもそも性という形態の行く先はどこにあるのか…。故に、ファロスによってペニスの欠如として語られてきた性を描きました。これらは二千年以上ものファロセントリズムによった政治の問題であります。性とは確実的に政治に左右されてきたと言えるでしょう。
 しかし、これらを描いたからといって私の作品が芸術として昇華しているかはわかりません。そもそも、わたし自身が一般男性(異性恋愛者であり、世界人口の9割を占めると言われる性的マジョリティに属す)であることから、この考えに芸術としての高尚性をどこまで説得力を持って表現できるのかは実際のところ不確かです。しかし、そもそも、性に関する問題は、男も女も少数派もそもそも個人としての個別的な存在であるはずです。そして、これら諸問題に対しては政治的解決が必要不可欠であるということは確実的に言え、そうならば芸術という分野に対してもこれら問題は必然的に課された問題であることは確実といえます。故に、この問題は誰しもに課された問題の一つであると考えます。それを直視せずには、現代の春画をどう描くのかは見えてきません。春画もポルノ映画もストリップも風俗も、日常にある性行為に関しても、全てが政治に関わっていると言わざるを得ないのは確かです。これらが独自に単一の世界を成しているなどと考えるのはあまりに不毛な考えです。春画はそのようなファロセントリズムな歴史を時代を追うごとに訴える歴史絵の一つと言えます。故に、私たちに関わるこれらは、芸術を通して議論すべきであり、その場がこの現代春画展ではないかと考えます。
 性は常に生死と関わるのは決して政治的だからではありません。精子と卵子の互いの存在は非連続的な存在であり、その結合によりそれらの存在は死を迎え、新たな非連続な存在を生む連則性へと繋がると言えるからです。そしてそれは繰り返される…しかし、このシステムに当てはまらない人たちがいます。それは性同一性という認識です。しかし、それだけではありません。事故で子を産めない体になった女性、そもそも精子が生産できない男性、それらの枠組みは、常に自然は無言を貫き通し、一切の情を寄越しません。これらも自然的秩序と言えるかもしれません。もし、その秩序の領域が広がれば、男と女という性にあといくつかの性が加わる可能性もあります。しかし、自然は現時点では相反する二元的世界を選択したわけですから、その可能性を残すのは人間のみになります。




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