In vitro
イン ヴィトロ

Technique

installation


Dimensions (mm)

1000 x 1800 x 100


Year of creation

2018





Concept

(LINK展16会場にて提示したステートメント) ※この展覧会のテーマが「IN VIVO」ということを踏まえ

今展のテーマ「In vivo」と自身の作品を考える上で、わたしという個の人間と「In vivo」という生体内にある細胞が共通することはなにか、そのようにコンセプトを考え始めました。
結果としては、「In vivo」から、細胞を肉体を構成する要素とし、その社会を構成する個人がいることをテーマにしていることを踏まえ、その個人を指す固有の名前は試験管に過ぎないということでした。決して、固有の名前は自身の一部ではなく必然性が問えないということです。ということは、試験管に入っている文字は個人の一部、または身体の一部ではなく、視覚化された文字であり、その意味は誰かを指し示す言葉でしかありません。そこには「貴志在介」と書かれたテープが試験管に入れられているだけであり、「わたし」という人間は入っていませんし、物質的な存在はありません。これは私の身体の肉片が試験管に入れられていれば全く別の話になります。当たり前のように聞こえるかもしれませんが、人によれば固有の名前によって「特定の個人を閉じ込めた」と思い込む人もいるかもしれません。しかしそれは間違いです。そこに在るのは概念です。名前というのは概念であって、自身の一部ではない、ということです。それは「貴志在介」が「山田太郎」という名前であったとしても誰も困らないからです。貴志在介はただ「だれか」を指し示す記号的な意味しか持っていません。
ただ、これを作品として通すには、一つルールがあるように思いました。それは、「実在する(だろう)」と考えられなければならない存在者のことです。しかし、「実在する」ことの確認を取る難しさがあります。誰しもが知っている人ははたして存在するのか…という問題です。しかし、最も簡単な方法がありました。それはこの会場の出品者の名前を試験管に封印してしまえば良いと。ご来場して下さったお客様が作品を一つ一つ丁寧に見て下さることを信頼し、そしてこの限られた空間の中で終始する、それが最も簡単であり、最適だと考えました。ここには70名の固有性を持った作品が並んでいるわけですから。だからといって、試験管に入っているのは概念としての名前だけです。そこに個人はいません。個人が宿るのは記憶の中と言っておきましょう。
 故に、「In vivo」という“生体内にある細胞”とは、この会場の作品を観てお分かりいただけるように、作家の躍動的なタッチやフォルムがそれを訴えかけます。「In vivo」を体現していると。生体内の細胞が蠢かないことにはこれらの作品を作れません。私は、それらを含めて、そういうことに個人を感じています。決して、名前で個人を感じることなどないのです。何度も言うように、名前とはメッキのようなもので、側(がわ)でしかありません。




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